昭和50年12月13日 朝の御理解



 御理解 第71節
 「此処へは信心の稽古をしに来るのである。よく稽古をして帰れ。夜夜中どういう事が無いとは限らぬ。おかげは我が家で受けよ。子供がある者や日雇取りは出て来る訳にはいかぬ。病人があったりすれば捨てておいて参って来ることは出来ぬ。まめな時此処へ参って信心の稽古をしておけ。」

 此処へは信心の稽古に来る所と、こう言っとられますけど、これはそれぞれのお広前教会、金光大神のお広前を指したもんだと思うですね。所がお互い本気で信心の稽古をさせて頂こうと思えば、それはどこででも出来ます。でけますけれども、矢張りそこにはそれを指導する又は教える、所謂先生が居らなければ出来ません。それで私最近お道の信心をこう思い見ますのに、果して本当の信心の稽古の出来れる、出来るお広前本当に教導の出来て居るお広前と言うのは実は極少ないのじゃなかろうかと思いますね。
 そりゃ教会も沢山ありますし先生方も沢山居られます。けれども本当に信心の稽古が出来る又は自分達が求めておる所を、所謂求道と申しますか、その求める道を教える的確にそれを導いて行くと言う、お広前が段々少なくなったんでがないだろうか。沢山の教会がある。沢山の信者が居るお参りはしておる。けれども稽古の姿勢も出来てもないが、それを教える此処は、言うならば信心の道場だと教える所だと、教導する所だと言う様な、お広前がほんとに極少なくなったんじゃないかと、いうふうに思うんです。
 昨日は松影会御座いましたから、久留米地区の総代さん方幹部の方の会合です。松影会、それが毎年ですけど十二月の月は共励会の共励の後に忘年会があります。昨日は宮ノ陣教会でそれが持たれた。こっからも信徒総代を初め総代さん方四名でおかげを頂いた。いつもその忘年会にすぐ移ると言った様な雰囲気だったそうですけれども、昨日はもう遅くまで四時頃まで共励があったと言う事です。
 それに宮ノ陣の幹部総代達が、まあ色々発表なさる。それをまあ研修すると言う事だったそうですが、昨日は私詳しくは聞きませんでしたけれども、昨日秋永先生帰って来てから、もう今日は先生初めから最後まで合楽の事ばっかりで御座いましたと言う事を聞かせて頂いたんですけれど。今宮ノ陣教会で一番の男の方での御用の頂き頭、女の方でも一番生き生きとして御用の出来ている方達が、合楽にもうそれこそ繁々とお参りする方達ばっかりだったそうです。
 毎朝参って見えます、高田さんですね。いつも此処にテープを入れて毎日帰られます。それからもう一人なんとか言はれましたね、もう一人女の方あぁ轟さん、それがその本当に合楽の教会におかげを頂いて、それこそ今迄分からなかった信心を分からして貰うて、自分の教会での御用が、本当に生き生きと有難く出来る様になったと、言うお話ばっかりだったそうです。
 そして他の教会の先生方が、それだけ熱心に合楽に参るごたるなら、自分方の教会に熱心にお参たっちゃ、おかげ頂こうもんと言う様なまあ反問も、あったらしいですけれども。それを秋永先生が言ってありましたけど、それこそもう梳き櫛で梳くごと説明をして上げた。もう最後にゃもう皆んなが秋永先生の手を握ってから、今日はおかげを頂いたと言うてから喜んで帰られたと言う話を聞かせて頂いたんですけれども。
 成程何処へ参ってでも熱心に参りさえすれば信心の稽古が出来る事ではないと言う事が分かります。そりゃ各々の教会にそれこそ本当にあれ程信心される、熱心な信心というのは何処にでも居ります。但し参っただけでは、お日参りが出来て居るだけでは稽古が稽古になっていないね。高田さん、轟さんのお話を私は聞いた訳じゃないけれども、話の模様がです、熊谷さんも一緒に行っておいでられてから、熊谷さんもでしたけども、それを言っとられました。もう初めから最後まで合楽の話でしたとこう言う訳です。
 それも合楽におかげを頂いて本当な事が分からして貰うた。それこそ高田さんじゃないですけれども、もう親子三代にわたっての御信心らしいですね。それで今の先生とも勿論心易いが若先生は特に、まあ気易うあるもんですから、まあ何と言うでしょうかね、高田さんの徳分と言うでしょうか、まあ何処でどう言う風に言うても余りさわらん様な感じで表現なさいます。
 極端なことを言われてますけどね。此処へお参りして見えるようになってから、或日です、先生私は毎朝朝の御祈念にテープを持って毎朝お参りしよります。そりゃもう本当に何十年の信心させて頂いとるのに、初めて金光様の信心がこう言うもんだと言う事が分かって来た。そりゃもう今迄教えて頂かんじゃった訳じゃなかばってん、まあ例えて云うならば、宮ノ陣で稽古したつは畦道の様なものでしたと。
 天地に繋る道、大道と言う大きな道を今合楽で教えて頂いとるですと言うてから、親先生にまた若先生に申し上げたら、親先生がね、本当なこっちゃんのと言うてから言わっしゃったということです。昨日の極端に合楽の事を言われたから、ちったあ気が引けたような感じがして、親先生に挨拶に行ったら、今日の話は、あんたの話が一番良かったばいと云うてから喜ばれたと云う話をね、昨日聞きました。宮ノ陣の先生方の場合は、勿論受け方が大きいですね。あれじゃ信者は離れられませんよ。
 しっかり信心の稽古に、合楽に行って来んのと言うまあ姿勢です。ですからそういう意味ででもです、私はね、本当にお互いの此処へは信心の稽古に来る所と言われるけれども、果して稽古のさせられる教会、道場らしい道場、いや求めておる者に与えられるだけの、云うならば信心の教導が出来る様な所が段々少なくなってきたのでは無かろうか。なら合楽の先生は出来てござるから詳しいから仲々学があるからと言う様な事では決してないのです。信心は又別です。ここでは例えば私がもう二十数年間。
 外の事は一つも申しません矢張りこの教典だけを皆さんに繰り返し繰り返し聞いて頂いとるけれども、その頂いとる所はですその何時も頂いた事の無い斬新な教祖の御教えの言葉の如何に偉大で深くて広い、そしておかげの頂ける、お徳の頂ける事に繋がっておるかと言う事を私自身日々それを実感致します。しかも最近朝の御理解を午後からここの修行生の方達が、全部ここに集まって来て研修を致します。そしてその研修をさして頂きよって本当に素晴らしいと私自身思うです。
 今迄はこういう只頂いただけだたもんですから、本当に惜しい只聞き流しにしておった様に感じるのです。もう研修すれば研修する程その深さにその斬新さに驚きますね。云うならば神の英知とでも申しましょうか。教える人説く人それは無学の商人にしか過ぎなかった私ですけど、私を通して教えて下さる神様の、所謂稽古をさせようとなさる、いわゆる信心をなさる、信心を解らしてそろをぎょうじさせて、そして徳を授けようおかげを授けようという働きを感じます。
 いうなら勉強が出来る訳です。成程合楽教学です。深遠です。哲学以上の哲学です。それもです、いうなら難しい教学の話と云うものはもう眠気のさす話ですけども、もう興味深々とでも申しましょうか、頂けば頂く程、しかもどんなに学の無い者であろうがです、又はどんなに最高の学問をしておる人であろうがです。成程とそれこそ合点が行く様に、まあ言うなら噛んで含めるように教えて頂くと言う、そういう意味でです。
 合楽程ここへは信心の稽古に来る所と言う事が言えれる教会は沢山はないじゃないか、取分け合楽はそういうおかげを頂いとると言う事を皆さんが再認識なさってです、本気でなら稽古をさして貰う姿勢をね、創らなければいけないと言う事であります。只聞き流して居るならばです、教導を受け取るも受け取らんも同じ事じゃないですか。只詳しゅうなっただけじゃいかんのですね。
 昨日も美登里会で、今度のおかげの泉にするのを二、三日分聞かせて頂きました。もう昨日はキッチリ四時まででしたから、もう銘々が研修する時間は全然ありませんでした。只三日分をテープで頂いただけでしたけれども、もう本当にみっちりその三日分の御理解を頂いてです、改めて又おかげを頂きますよね。昨日北野の秋山さんの所のお父さんです、秋山さんのお父さんの霊さんの式年祭が御座いました。十五年祭ですもう本当に子供、孫達皆んな集まって本当に盛大な真心を込めた、しかも麗しい霊祭でした。
 もう皆娘達孫達を連れてやって来とりますから、これだけの大変なお祭りをするのに、娘婿達がつれて来るとちゅう事は、ほんにどうでんいかんのち、この次の霊祭はどうでん、あんただん御主人も連れて来じゃいけないよと言う程しに、まあ内々だけで頂くのじゃ勿体ない様なお祭りでした。御親戚の方も見えとりました。けれども、皆んな子供達ばかりで、孫達ばかりでの霊祭でしたが。
 私は昨日の霊祭を奉仕させて頂いてから、本当に改めて分からせて頂いた事はね、成程ここへは皆さんも信心のけいこに通って来られるように、皆さんの稽古のだんどりが出来。そしてその信心がだんだん進んで行かれるに従ってです、霊様達が同んなじように信心の稽古をなさっておられると言う事をです、私は改めて分からせて頂きました。霊ながらに合楽の信心、言うなら合楽の圏内にある霊様達がです、霊ながらにけいこをなさって居られると言う事です。
 昨日お祭りが始まって、ここへ着かせて頂いた途端に、左の耳が何かこうめい状し難い何かキリキリと痛む。痛むとじゃないけど、何かキリキリとした様な耳の中に光物が入って来るような感じで響くんです。そしたらもう耳鳴りがゴウゴウ言うごたる耳鳴りです。私は初めの間はどうしたこつじゃろうかと思いよった。それから大祓いが上がるようになって一生懸命大祓いを奏上さして頂きよりましたら、もう耳鳴りが耳鳴りとも感じんようなりました。最近御祈念修行と言う事が言われる。
 大祓なら大祓を唯無条件に唯一心不乱に奏上さして頂く。それは自分の心に言うならば奏上する様なもの。そこから所謂無条件です。大祓を奏上さして貰う時には、あればお願いします、こればお願いしますちゃ云いよらん。心に願いを持っとっても奏上さして頂いとる間はもう無心になって無心の状態で大祓を上げて居る。今迄耳鳴りを感じて居ったのが耳鳴りを全然感じなくなった。それでああこれはおかげ頂いたなあと思うて、終って仕舞うたらまたゴウゴウ言いよるんです。
 神様へ無心で向かうと言う事はです、確かにそれこそゴウゴウ言う程しの耳鳴りをしておるその耳鳴りを忘れさせる程のものがあると言う事で御座います。そしてああ大祓ば一生懸命上げよったとき、ああ忘れて仕舞うとった。皆さんそんなあれがありましょうが、頭が痛くっても何かに熱中して一生懸命の時にはもう頭の痛さと言うものを忘れてしもうとるでしょうが。済んだ途端にまた頭が痛うなる。頭が痛うなるのじゃない、それをもう忘れさせるものがあるです。一生懸命というものには。
 それをなら私共は、その大祓なら大祓の修行を本気でさせて頂くと言う事が、その大祓を上げて居るその間だけは、言うならおかげの頂けれる心の状態が開けて居ると言う事が言えましょう。痛いものでも痛くない程しのおかげの頂けれる状態が開けるのです。そういう意味で大祓信行が大事だと本当にここん所が欠けて居ったと言う事を改めて感じます。御祈念が終らして頂いたら、また途端に耳がゴウゴウ鳴りだした。
 はぁやっぱり耳鳴りはしよったつばいのと思いよったら、もう神様の方の御祈念を終る頃には、もうすっきりなくなった。はぁそして初めて、ははぁ今度のは霊様の御都合じゃったばいなと思いました。だからどう言う事じゃっただろうかと言う事を頂きましたら、御理解にです、今日お祭りを受けて居る霊が生前、成程信心がなかった訳じゃない。長男の光幸君があの生まれるときには、お爺さんが一心に、一生懸命に参って見えました。生まれた時にも安産の御礼に出て見えました。
 そしてもう喜び一杯で、先生今度はあなた息子で御座いました。どうでんいっちょお名前をと言う。それが私は大変印象に残っとりますが、と言う様に信心がなかった訳ではなかった。けれどもね外の例えば、ここで御教えでも頂こうと言う事は全然なかったと言うそれこそ、耳がゴウゴウ言いよるから全然御理解などは頂いていなかったと言う事でした。皆さん御理解を頂こうと言う気の無い人は耳鳴りがゴウゴウしよると同じ事ですよ。ところがです、おかげを頂いてです。
 最近合楽で云われる所の大祓信行が始まると同時に霊様もそれと同んなじ様な修行さして頂いとります。おかげでです、言うならば耳鳴りのゴウゴウ言うとがです、自分で感じない位になった所に、御教えが入って来るようなおかげを頂いとりますと言う。そりゃ霊さんが耳鳴りしとんなさると言う事じゃありませんですけど、同じそういう意味合の事だと、今迄は御理解が耳に入らなかった。所が合楽の信心に便乗して霊様もおかげを頂いて行きよる。霊の位も霊の働きも段々出来るようになって来よる。
 それが例えば、この式年子供達孫達の真心込めてのこのお祭りがどう言う事になって来たかと云うと、その耳鳴りが聞こえん程しの信心修行が出来るようになった。霊様に移らして貰うて御祈念の座に着かせて頂いた途端に、もうそれこそ名も知れん程しの素晴らしい紫色の花がね、草花を切ったっら暫くするとしわっとこうなるでしょうが。そのしわっとなったのがね、水に漬けた途端にしゃんと上向いて来るでしょうが。その状態を頂くのです。紫の花と言う事は愈々安心と言う事でしょうけれどもね。
 本当に遺族の者の真心がっす、霊様を殺しもすりゃ生かしもする事が分かります。同時に霊様としては最近の合楽の信心に便乗さして頂いて、分かり易く言うならばやっぱり大祓信行と言うかね、をさせて頂いとりゃ、今までゴウゴウ言うて耳に入らなかった御教えでもです、入って来る様になっておかげを頂いて。そしてその後に耳鳴りもおかげで快くなったと云う様なおかげを頂いて、愈々ますます御教えが御教えとして入って来るようなおかげを頂くと言うお知らせを頂きました。
  だからここへ参って信心の稽古をするという。皆さんの稽古が出来て居ると言う事は、それは皆さんのお家がです、特に改式をして、うからやからの霊達の上にもです、皆さんの信心を送って上げる事が出来ておる、皆さんと同んなじ歩調を合わせて信心の稽古をして居ると言う事。そういう稽古をされる、してさせて頂けれる教えて頂けれる、お広前に皆さんはおかげを受けておられると言う事を、先ず認識してそして銘々としてはその稽古の姿勢を本気で作らなければいけないと言う事であります。
 どんなに例えば教えて頂いてもそれが身に付かないならこんなにつまらん話はない。畦道のようないうならば教導なら何処ででも出来て居るかも知れないけれども、それは細々とした、言うならばおかげしか交流して来ないでしょう。それこそ高田さんの言葉じゃないけれども、天地に繋がる大道、大きな道を教えて頂くのですからそこから又大きな交流が頂ける事も勿論であります。
 これはまあ私が大きな事を云うようでありますけれども、昨日の云うなら松影会の研修会で宮ノ陣の教会の発表なさった男女の二人の方が、しかも宮ノ陣教会でお二人とも一番御用の頂き頭というて先生方も喜んで頂くそうなその方達が発表するのは、どこかと云うと永年信心はしとりましたけれども、まあ本当の信心と言うか、より本当な信心を合楽に依って段々分からせて頂きます。
 分からして頂くからやはり御用も打ち込んだ御用が出来る様になりましたと、言う様なです、意味のような話をなさったと言う事を聞かせて頂いてです、今日の御理解を改めて、成程ここでは信心の稽古に来る所と言われるが、それこそここでこそ、言うなら合楽のお広前でこそ稽古が出来て居ると言う事をね、一つ誇りにすると言ったってつまりませんね。自分が頂かなければ。
 そこにはね私共だけではない、そういう言うならば高度な信心に進んで行けば行く程、なら霊様達までも一緒に歩調を合わせて稽古が出来て居られるというふうに思うてきたら、言うなら根も生き生きとして来る。それこそお恵の水に合うた切り花の様なものであります。生き生きとして来る。そこに生き生きとした信心、生き生きとした、御用も出来る訳であります。本当にですね、本当に神様の一分一厘間違いの無い働きと言う事。おかげを受けて居ってもです。
 、そこんにきがぼんやりしてるおる、おかげしか頂いていない様ですよ。合楽辺りの、今日も私こちらに出て参りまして幹三郎と二人で昨日、今日が親教会の教祖大祭が十二月三日のが十日延びましてもね、今日が教祖大祭です。皆さんもどうぞ御参拝のおかげを頂かれ、今度は新館の方を仮斎場として、まああちらで奉仕される様になっとります。まあだこれでお祭り仕えられると言う位、まあだ雑然としたものらしいです。ようやく確か夕べ簾が入ったのじゃなかろうかと幹三郎言っとりました。
 昨日光昭と二人、御用にやらして頂いてからの話で御座いますけれども、本当に例えば、合楽のいろんな教会で、どんな事がありましても、その素晴らしいタイミングが生まれて来る。あぁもう合楽辺りでは、とても思いも出来ない考えも出来ない様な事だと。例えば大祭ば延ばさんならんとか、まあそれを延ばしたけれども、まあだあれも整うとらん、これも出来とらん、こう言う事が合楽ではないですもんね。と言う事を幹三郎が言っております。皆さんもそれを実感されるだろうと思う。
 どう言う様な事があってもそこにそれこそ、梳櫛で梳いた様にスキッとして、所謂ピチっとした一分一厘間違いの無いタイミングが生まれて来る。と言うてなら善導寺がおかげを受けとられんと云うことではない。何とはなしにそうでなくても出来ると言う事ですけれども、そういうスキッとしたものになってないと言う所にです、お互いスキッリとした信心の稽古と言う事が本当になされて居ないからだと言う事を云えますね。
 だからそういうふうにです、おかげにも繋がって来るんです。こらどんこんでけんとか、都合の悪いことはない。都合の悪いごたるけれども、それがかえっておかげであったというふうに、いわば実際の問題としても表れて来るでしょうが。合楽の場合は。そこに的確なと言うか間違いのない稽古を日頃つけて頂いておる。また私自身もそこを頂いていって居ると言う事が言えるのです。
 そういう言うならばおかげにもつながる事です。今日は私は我田引水になりますけれども、ここへは信心の稽古をしに来る所と、いえれる私は教会が何軒在るだろうかと全国で。只手探り的な稽古はしとるに致しましても、そういう意味でです、私の場合は頂こうと思えばその姿勢さえ作ればです、教えて頂けるお広前に御縁を頂いて居ると言う事をです、改めて認識さしてもろうて、本気で私共は信心姿勢を作らなければ勿体ないと言う事を今日は聞いて頂きましたね。
   どうぞ。